伝説のポストマン
2010年6月5日http://photo.flapal.com/
伝説のポストマン
平成二年 2月 6日 (1990.02.06) 伝説のポストマンがこの世を去った。
昭和58年 6月30日。(1983.06.30)
おじーさん。郵便配達員定年最後の日。当時、僕は7歳だった。
おじーさんは何処(どこ)かひとを寄せ付けなかったところがあるけど怒られた記憶はない。父はずいぶんおじーさんに殴られたっていってたっけ。やはり孫はかわいかったんだと思う。
夏休みにいっしょに電車に乗ったことがあった。車内にはまだ冷房はなく、扇風機がくるくるまわるだけ。夏になるとおじーさんといっしょにのった電車を思い出す。
終戦東京(祖父)
終戦。満州からかえってきた私は、東京の南多摩にある本家にやっかいになっている。父と母はいない。本家のひとに聞いても知らないという。戦争に負けたこの国には、もはや軍人は必要ないのだ。配給に頼っていた台所事情において、私は今や何の価値のない厄介物でしかなかった。
私たち家族は、小笠原諸島の母島に住んでいた。本土決戦間近と噂され、島民は本土に強制疎開されたという。そのとき私はすでに満州にいた。終戦の詔勅(玉音放送)が流れ、私は日本に生きて帰ってくることができた。今はこうして身内を頼りに東京の本家にいる。満州にいっている間に父と母の行方はわからなくなった。
東北疎開(祖母)
私は、父島に住んでいました。
強制疎開で、宮城県は牡鹿半島のちいさな港町にきています。夫は、フィリピン沖の海域に漁にでていったまま戻ってはきませんでした。敵の魚雷が夫の船を沈めたという話を聞いたのはそれから間もなくでした。父島のひとたちはみなどうしているでしょうか。みっちゃんやチヨちゃんは無事なのでしょうか。戦争は私からみんな奪っていきました。今は、唯一あのひとが残してくれた娘とふたり生きています。
東京脱出(祖父)
父と母と連絡がとれなくなったある日、本家の戸棚にある封筒をみつけた。
母からだった。
[家族はみな、捕鯨事業をしているおじさんのところにいる。至急連絡くれたし。]
私は飛びあがった。父と母が生きている。戦後、その日を精一杯生きていくのひとたちは、生活苦のため心は荒み、おなじ家に住んでいながら手紙の受け渡しもままならない状況だった。私は、本家のひとに別れを告げ北へ向かった。
父と母が生きている。
鯨を捕る町(祖母)
ちいさな港町。ここでは人々は鯨を捕って暮らしている。鯨を解体する岩場は血で赤く染まり、作業を終えた後はカラスが飛びかっている。
私は近所の畑の手伝いをしている。今日も暑くなりそう。近くの沢から水を水筒につめ、手ぬぐいを浸して顔を拭いた。遠くで黒い陽炎がゆらりと揺れた様な気がした。
誰だろう。あの汚れた格好の男は?
手を休めてみるとヨタヨタと髪も髭(ひげ)も伸び、ボロの布を纏(まと)っただけの男が歩いてきました。
後で知ったことですが、彼は、この港町に疎開してきたご両親を追ってやって来たというのです。両親は、息子はとうに戦死したと考えていました。そこへひょっこり帰ってきたものだから慌てふためいたという話です。お母さんにいたっては、息子がバケてでてきたと腰をぬかしたそうです。彼は東京から400kmもの距離を歩いてきたというのです。
結婚そして誕生
それからこのふたりは結ばれた。僕のおじーさんとおばーさんだ。母島と父島、となりあうふたつの島に生まれ育ったふたりは、お互いの存在を知らずに育ち、
戦争によってそれぞれ自分の島を離れ、そして見知らぬ遠い地でふたりは出会った。
おじーさんは無一文、おばーさんは子連れのバツイチ。このふたりの間にまもなく長男が誕生する。僕の父さんだ。
大晦日午前0時(父)
ボクらの遊び場は海岸だ。今日も友達と野球をしてる。海岸がグランドのかわりだ。遠くに、赤く染まった岩場がみえる。なんで、あそこだけ赤いのだろう。
夕方には家に帰らなければならない。風呂(五右衛門)の薪を用意しないといけないんだ。その他にもたくさん、家の手伝いをしなくちゃいけない。いちばん嫌なのは、豚の餌を集めることだ。家で飼っている豚の餌を近所をまわって調達するんだ。餌といってもつまりは残飯だ。匂いで鼻がまがりそうだった。夕暮れが姿をけしてくれるのを待っていた。あまり暗くなるとオヤジに怒られるし、残飯の量はハンパじゃないし、めぐる順番を選択する余裕もなかった。同級生の家もある。こんな姿はみせたくなかった。ふくちゃんの家にいくときは、特に嫌だった。
中学になったとき、朝、新聞配達をして小遣いをためた。どうしても欲しいものがあるんだ。夏の暑い日も雪の寒い日もがんばった。もちろん豚の餌も集めた。そして、念願のカメラを手にいれた。ボクはカメラが欲しかったんだ。嬉しくてうれしくて家に帰る途中なんどもファインダーをのぞいた。
馬鹿野郎!!そんな役にたたないものを買ってきやがって。いますぐ返して来い!
オヤジにカメラをみせたら怒鳴られた。カメラを店にかえしてきた帰り道、くやしくて涙が流れた。うちは貧乏だった。
高校生になって、ひとり暮らしをはじめた。山をみっつもよっつも越えたところにある文房具屋の2階、2畳半の部屋だ。家の近くには学校がない。だからボクは、下宿先の文房具家でアルバイトをしては生活費を稼いだ。
ボクには姉がいる。ある日、姉が学校から家に帰ってきたとき通学路(山道)を男につけられてきたとひどく怯えていた。まだ近くにいるらしい。それを聞いたオヤジは、自転車にまたがり、男を追いかけた。男はバイクにのっていた。逃げ切れると思っていたに違いない。だが、相手はオヤジだ。オヤジは山の郵便配達員なんだ。山をみっつもよっつも越えたところまで追いかけ、ついに男を捕まえることに成功した。チャリンコで、もの凄いスピードで追いかけてくるオヤジは、さぞ恐かっただろうと思う。
高校を卒業したボクは仙台のコカコーラに就職した。こどもの頃の思い出が忙しい毎日のなかに埋もれてゆくなかで、彼女だけは忘れたことはなかった。
彼女は、同じ山でそだった幼なじみ。同じ仙台の美容室に働いている。ふくちゃんだ。子供のころ、残飯をもらいにいった近所の女の子だ。
大晦日の夜、もしよかったらいっしょに帰ろうか?
ボクらはいっしょに故郷に帰る約束した。そして、大晦日。車のなかでふくちゃんを待った。ところが夜10時になっても彼女は現れなかった。
午前0時をまわり、新年。
ボクはあきらめ、ひとりで帰ってきた。
彼女とはそれっきりになってしまった。
伝説のポストマンの息子はカメラマン
これが、おじーさんの三回忌のとき帰りの車内で父さんから聞いた話だ。
ちょっと待って、ふくちゃんて。さっきのあの女性(ひと)?
おじーさんの仏壇を拝んだ帰りに立寄った家がある。ひとりのかわいらしいおばさんがいた。父さんが、ウキウキしていたのをおぼえている。
大晦日、彼女がどうしてもこれなかったのは、初詣に向かうひとの着付けで美容室を抜け出すことができなかったからだ。それを話し終えると彼女はこうつけたした。
『私ね。あの夜、いっしょに故郷に戻ってたらね。
あなたといっしょになってたと思うよ。』
数十年という時を経て、大晦日にいえなかった言葉が、ようやく父さんに届いた。
今は、僕といっしょに車で帰っていくが、たぶん、父さんは今、あの時の彼女を乗せて帰っているのだと思う。
そして、おじーさんの話になった。仏壇に飾ってある制服姿のおじーさんの写真。あれは、郵便配達員定年最後の日に撮った写真だ。愛車の(伝説の)自転車に添える手はどこか弱弱しかったという。とってもさみしそうな顔をしてるって、父さんは言ってた。
父さんは今、カメラマンをしている。専門学校でカメラの先生をしたり、地元のお年寄りたちにカメラのたのしさを教えている。
おじーさんに怒鳴られたカメラをつづけているのだ。
伝説のポストマン
平成二年 2月 6日 (1990.02.06) 伝説のポストマンがこの世を去った。
昭和58年 6月30日。(1983.06.30)
おじーさん。郵便配達員定年最後の日。当時、僕は7歳だった。
おじーさんは何処(どこ)かひとを寄せ付けなかったところがあるけど怒られた記憶はない。父はずいぶんおじーさんに殴られたっていってたっけ。やはり孫はかわいかったんだと思う。
夏休みにいっしょに電車に乗ったことがあった。車内にはまだ冷房はなく、扇風機がくるくるまわるだけ。夏になるとおじーさんといっしょにのった電車を思い出す。
終戦東京(祖父)
終戦。満州からかえってきた私は、東京の南多摩にある本家にやっかいになっている。父と母はいない。本家のひとに聞いても知らないという。戦争に負けたこの国には、もはや軍人は必要ないのだ。配給に頼っていた台所事情において、私は今や何の価値のない厄介物でしかなかった。
私たち家族は、小笠原諸島の母島に住んでいた。本土決戦間近と噂され、島民は本土に強制疎開されたという。そのとき私はすでに満州にいた。終戦の詔勅(玉音放送)が流れ、私は日本に生きて帰ってくることができた。今はこうして身内を頼りに東京の本家にいる。満州にいっている間に父と母の行方はわからなくなった。
東北疎開(祖母)
私は、父島に住んでいました。
強制疎開で、宮城県は牡鹿半島のちいさな港町にきています。夫は、フィリピン沖の海域に漁にでていったまま戻ってはきませんでした。敵の魚雷が夫の船を沈めたという話を聞いたのはそれから間もなくでした。父島のひとたちはみなどうしているでしょうか。みっちゃんやチヨちゃんは無事なのでしょうか。戦争は私からみんな奪っていきました。今は、唯一あのひとが残してくれた娘とふたり生きています。
東京脱出(祖父)
父と母と連絡がとれなくなったある日、本家の戸棚にある封筒をみつけた。
母からだった。
[家族はみな、捕鯨事業をしているおじさんのところにいる。至急連絡くれたし。]
私は飛びあがった。父と母が生きている。戦後、その日を精一杯生きていくのひとたちは、生活苦のため心は荒み、おなじ家に住んでいながら手紙の受け渡しもままならない状況だった。私は、本家のひとに別れを告げ北へ向かった。
父と母が生きている。
鯨を捕る町(祖母)
ちいさな港町。ここでは人々は鯨を捕って暮らしている。鯨を解体する岩場は血で赤く染まり、作業を終えた後はカラスが飛びかっている。
私は近所の畑の手伝いをしている。今日も暑くなりそう。近くの沢から水を水筒につめ、手ぬぐいを浸して顔を拭いた。遠くで黒い陽炎がゆらりと揺れた様な気がした。
誰だろう。あの汚れた格好の男は?
手を休めてみるとヨタヨタと髪も髭(ひげ)も伸び、ボロの布を纏(まと)っただけの男が歩いてきました。
後で知ったことですが、彼は、この港町に疎開してきたご両親を追ってやって来たというのです。両親は、息子はとうに戦死したと考えていました。そこへひょっこり帰ってきたものだから慌てふためいたという話です。お母さんにいたっては、息子がバケてでてきたと腰をぬかしたそうです。彼は東京から400kmもの距離を歩いてきたというのです。
結婚そして誕生
それからこのふたりは結ばれた。僕のおじーさんとおばーさんだ。母島と父島、となりあうふたつの島に生まれ育ったふたりは、お互いの存在を知らずに育ち、
戦争によってそれぞれ自分の島を離れ、そして見知らぬ遠い地でふたりは出会った。
おじーさんは無一文、おばーさんは子連れのバツイチ。このふたりの間にまもなく長男が誕生する。僕の父さんだ。
大晦日午前0時(父)
ボクらの遊び場は海岸だ。今日も友達と野球をしてる。海岸がグランドのかわりだ。遠くに、赤く染まった岩場がみえる。なんで、あそこだけ赤いのだろう。
夕方には家に帰らなければならない。風呂(五右衛門)の薪を用意しないといけないんだ。その他にもたくさん、家の手伝いをしなくちゃいけない。いちばん嫌なのは、豚の餌を集めることだ。家で飼っている豚の餌を近所をまわって調達するんだ。餌といってもつまりは残飯だ。匂いで鼻がまがりそうだった。夕暮れが姿をけしてくれるのを待っていた。あまり暗くなるとオヤジに怒られるし、残飯の量はハンパじゃないし、めぐる順番を選択する余裕もなかった。同級生の家もある。こんな姿はみせたくなかった。ふくちゃんの家にいくときは、特に嫌だった。
中学になったとき、朝、新聞配達をして小遣いをためた。どうしても欲しいものがあるんだ。夏の暑い日も雪の寒い日もがんばった。もちろん豚の餌も集めた。そして、念願のカメラを手にいれた。ボクはカメラが欲しかったんだ。嬉しくてうれしくて家に帰る途中なんどもファインダーをのぞいた。
馬鹿野郎!!そんな役にたたないものを買ってきやがって。いますぐ返して来い!
オヤジにカメラをみせたら怒鳴られた。カメラを店にかえしてきた帰り道、くやしくて涙が流れた。うちは貧乏だった。
高校生になって、ひとり暮らしをはじめた。山をみっつもよっつも越えたところにある文房具屋の2階、2畳半の部屋だ。家の近くには学校がない。だからボクは、下宿先の文房具家でアルバイトをしては生活費を稼いだ。
ボクには姉がいる。ある日、姉が学校から家に帰ってきたとき通学路(山道)を男につけられてきたとひどく怯えていた。まだ近くにいるらしい。それを聞いたオヤジは、自転車にまたがり、男を追いかけた。男はバイクにのっていた。逃げ切れると思っていたに違いない。だが、相手はオヤジだ。オヤジは山の郵便配達員なんだ。山をみっつもよっつも越えたところまで追いかけ、ついに男を捕まえることに成功した。チャリンコで、もの凄いスピードで追いかけてくるオヤジは、さぞ恐かっただろうと思う。
高校を卒業したボクは仙台のコカコーラに就職した。こどもの頃の思い出が忙しい毎日のなかに埋もれてゆくなかで、彼女だけは忘れたことはなかった。
彼女は、同じ山でそだった幼なじみ。同じ仙台の美容室に働いている。ふくちゃんだ。子供のころ、残飯をもらいにいった近所の女の子だ。
大晦日の夜、もしよかったらいっしょに帰ろうか?
ボクらはいっしょに故郷に帰る約束した。そして、大晦日。車のなかでふくちゃんを待った。ところが夜10時になっても彼女は現れなかった。
午前0時をまわり、新年。
ボクはあきらめ、ひとりで帰ってきた。
彼女とはそれっきりになってしまった。
伝説のポストマンの息子はカメラマン
これが、おじーさんの三回忌のとき帰りの車内で父さんから聞いた話だ。
ちょっと待って、ふくちゃんて。さっきのあの女性(ひと)?
おじーさんの仏壇を拝んだ帰りに立寄った家がある。ひとりのかわいらしいおばさんがいた。父さんが、ウキウキしていたのをおぼえている。
大晦日、彼女がどうしてもこれなかったのは、初詣に向かうひとの着付けで美容室を抜け出すことができなかったからだ。それを話し終えると彼女はこうつけたした。
『私ね。あの夜、いっしょに故郷に戻ってたらね。
あなたといっしょになってたと思うよ。』
数十年という時を経て、大晦日にいえなかった言葉が、ようやく父さんに届いた。
今は、僕といっしょに車で帰っていくが、たぶん、父さんは今、あの時の彼女を乗せて帰っているのだと思う。
そして、おじーさんの話になった。仏壇に飾ってある制服姿のおじーさんの写真。あれは、郵便配達員定年最後の日に撮った写真だ。愛車の(伝説の)自転車に添える手はどこか弱弱しかったという。とってもさみしそうな顔をしてるって、父さんは言ってた。
父さんは今、カメラマンをしている。専門学校でカメラの先生をしたり、地元のお年寄りたちにカメラのたのしさを教えている。
おじーさんに怒鳴られたカメラをつづけているのだ。
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